人に渡せる傘を持つこと

「必ず折り畳み傘を持ち歩いてね、余計な傘を買わないでね」

ビニール傘を持ち込まない、というマイルールはここ数年徹底されていた。

万が一折り畳み傘を忘れても、安易にコンビニで買ったりせず、軽い雨なら濡れて帰るしタクシーで帰ってもいい。アプリで呼べばタクシーは三分で目の前に来てくれて、街中に張り巡らされた地下鉄の好きな駅まで連れて行ってくれる。便利な世の中なのだ。

スッキリとした暮らし、スマートな生活、ストックを持ちすぎず無駄を減らし、物の少ないキレイな部屋に住むこと。どれも私を魅了させてやまないものだ。

理想があり、ルールがあり、それを守って生活することは、目盛りぴったりに水を注ぐように自分を満足させてくれる。

*・*・*

 

先週末、公園で子どもを遊ばせていたら突然の雨に降られた。久々の、絵本の中の夏のような土砂降り。

家族四人、公園の前の団地で雨宿りをしていた。私は折り畳み傘を持っていたけれど、夫も長男も持っていなかった。あろうことかベビーカーの雨よけカバーも積み忘れていた。やってしまったなぁと、嘘のような土砂降りを眺めていた。

「こんな雨で参っちゃうわね」

通りかかったご年配のご婦人が声をかけてくださる。

「ほんとですね」「早く止むといいですね」

他愛のないやりとりをして、ご婦人は団地の中へ帰っていかれた。乳白色の四角い建物を縁取るように植えられたパステルカラーの紫陽花はしっとりと濡れて光っていた。

突然の雨に走ってお店に駆け込む人、カバンを雨よけに帰路を急ぐ人。激しい雨越しに、ぼんやりと往来を眺める。

しばらく待ち、雨脚はわずかに弱まってきた。ベビーカーの中で目を覚ました赤ん坊、すぐに公園に飛び出そうとする三歳男子。二人ともグズグズしてくるので油断ならない。まだ降っているけど、ちょっとくらい濡れてもいいから行ってしまおうか。そう思った折、ふいに二本の傘が差し出された。

「良かったらこれ使って、家にあったものだから返さなくていいから」

先のご婦人だった。大人用と子供用、無機質なビニール傘の、誰にも属さない透明さが優しく光る。

その日は朝から長男の機嫌が悪く、本当は買いたいものがあってお店に行ったけどほとんど見られず、買い物は諦めて公園でやっと遊び始めたら土砂降りで、なんというか雨そのものではなく途方に暮れていた。子育てをしていると、いや子育て中に限らず、そういう日は生きている限り誰にでも度々訪れる。

だから余計に、救われる思いがした。ありがとうございますと何度も頭を下げ、私たちは傘という透明な優しさを受け取った。

もらった傘で向かったファミレスはこれまた冗談のように混んでいて、結局タクシーで帰った。買い物も食事も公園遊びもままならなかった休日に、しかしとても明るい光の差した瞬間だった。

*・*・*

 

しんどいとき、途方に暮れたとき、記憶のなかによみがえるのは知らない誰かに優しくしていただいた無数の断片である。

便利なこと、効率的であること、理想のルールに沿って暮らすこと。どれも一瞬は自分を満たしてくれる気がするけれど、生きていくことを鼓舞してくれるのはいつだって、差し出された誰かの掌なのだ。

人に渡せる傘があること。その豊かさ、あたたかさ、懐の広さを想う。ご婦人は高齢で足が悪く杖をついていたし、団地にはエレベーターがない。それなのに一度家に帰って持ってきてくださったのだ。とても大変で面倒だったことと思う。

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東京はスマートに暮らすことができる街だけど、〇歳三歳を抱えて過ごす私の日々はスマートとは程遠く、荷物は多く、周りに迷惑をかけないようにしなくてはといつもどこか緊張している。

長男はもうすぐ四歳になるので、そんな日々も五年目になるけれど、街や通りすがりの人々に幾度親切にしていただいたか知れない。

*・*・*

 

そんなわけで久々に、玄関にビニール傘が二本ある。ちょっとくたびれた、色褪せた。でも私を癒し、大事な何かを思い出させてくれる、美しい二本の傘。

*・*・*

 

ハンドルを操作するときの余分な部分を「遊び」という。それは無駄なようで無駄ではない。現実の道を安心して運転するために、なくてはならない余白なのだ。

ビニール傘二本くらいの遊びの部分を、いつも生活の中に持っていよう。人に渡せる傘を持ち、人に優しくできる余裕を持つ。簡単なようでとても難しく、でも美しく生きるというのはきっとそういうことに違いない。

どんな予定を詰め込もうと、細かなことは瞬く間に忘れてしまう猛スピードの日々のなかで。

雨に濡れたパステルカラーの紫陽花に、差し出された透明の傘。

特急列車の車窓のように、優しい色彩はたしかに心に残っていて、私の地味で頼りない旅路を輝かせてくれている。

Sweet+++ tea time
ayako

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