「我が家の総資産が目減りしている」
夫が言った。
コロナで旅行も外出もしていないのに、貯金が増えていないどころかちょっと減っているという。ちなみに我が家では貯金のことを「総資産」と言っている。呼び名だけ立派である。
「なんでだろう」
「不思議だねぇ」と、遅く起きてきた私はボサボサの頭に眠気まなこで生返事をした。
不思議でもなんでもない。お金は使ったから減るのである。一歩も家からでなくても、ごく自然にお金を落として経済活動に参画できてしまう、輝かしくも恐ろしい2020年である。
家ごもりの期間、オーブンを買い、製菓グッズを揃えてお菓子を焼きまくっていた。電子レンジを買い替え、二台目の冷蔵庫も買った。だがこれは無駄な出費ではない。オーブンで焼いた肉も魚もクッキーも、大喜びで食べたではないか。
一方で夫も高級デスクチェアを買い、巨大モニターにキーボードやヘッドホンなどを揃え、テレワーク環境を日々拡充させていた。だがこれももちろん無駄な出費ではない。
「まあ、どれも必要だったものだよね」
私はザックリとそうまとめ、半分しか開いてない目で決意を表明した。
「これからはキッチン雑貨とか服を買わないようにするよ。引き締めていこうッ!」
「違うんだよayakoさん、ただ我慢すればいいという問題じゃないんだ。もっと予算を決めていろいろコントロールしたほうがいいと思うんだ」
理屈はわかる。
私だってノートに支出を書き出してアナログ家計簿をつけていたこともあるし、今は家計簿アプリに自動反映されている。だがどんなに精密に記録したところで、必要なものは買うしかない。細かい計算は面倒だし、現金で買った野菜やパンをいちいち入力するのは怠い。なんなら家計簿アプリもたまにしか見ない。
夫は厳かに言った。
「ほら、こないだもなんとなくトロを買ってしまったし…」
一昨日の散歩で魚屋に行ったとき、トロの刺身(800円)を買ったのが贅沢だったのではないかと定期的に気にしているのだ。何度も冷蔵庫を開けてはニマニマしていたのは誰だったか。胃の中に入ったらすべて忘れて不安だけが残ったのか。費用対効果が最低である。
「じゃあトロも買わないことにしよう」
「そういうことじゃないんだッ!」
夫が声を荒げるときは、必ずグルメが関わっている。
「ayakoさんはわかってないよ、単に我慢するなんてやり方は続くわけないんだ…予算と照らし合わせて、今月はちょっと余裕がないから今日はトロじゃなくてマグロにしよう、とかそんなふうにやっていきたいんだ」
「だったらいつもマグロにすればいいじゃん」マグロも美味しいし。
「それは違うんだッ!」
トロが好きすぎる男と、計算が面倒くさい女の間でなかなか話が進まない。
「やっぱりちゃんと予算管理した方がいいんじゃないかな」
「うん、それは正しいよね」
だが削るべくは他のカテゴリーではないか。個人商店で安くて新鮮なものを買っているし、食材を余すことなくちゃんと自炊している。そもそもとんでもない量を食べているのは夫である。
私は提案した。
「やっぱり贅沢を控えるのが一番最初だよね」
「それはそうだね」
「お互いの娯楽費を予算制にするのはどう?それぞれ二万円ずつとか。一万円でもいいけど。その中で私は化粧品や服、キッチン雑貨を買うし。そっちもその中で宅麺を買うとか?」
このおしゃれブログ読者の皆さんは、おそらく宅麺をご存知ないであろう。名店のラーメンやつけ麺が、家で再現できるよう冷凍パックになった通販サイトである。人気のあまり入荷数分で売り切れてしまう。
夫は毎日虎視眈々と宅麺のSNSやメールをチェックし、入荷連絡が来るなり震える指で注文している。見逃して在庫切れだったときの悔しがりようはとても30代男性(既婚・会社員)のそれではない。地団駄を踏む一歳児そのものである。
ちなみに送料も含めると一食1,200円くらいになり、一回に4〜5個注文するらしい。あれば毎日のように食べる。これは贅沢品であろう。
「宅麺は食費だよッ!」
夫はふたたび声を荒げた。グルメである。
「いやいやいやいや、それはおかしい。一食1,200円だよ?我が家の一週間の野菜は三千円だし!自分しか食べない外食なんだから宅麺は完全に娯楽費でしょ」
「それはおかしいッ!」
外食は食費なのか、交際費なのか何なのか。じゃあテイクアウトは出前は。この問題は家計簿をつけるとき必ず生じる定番のものである。言わば"あるある"である。だが夫はさらに重ねてこうのたまった。
「僕の宅麺が娯楽費なら、ayakoさんのお菓子づくりだって娯楽費に入るはずだッ!」
「それはおかしいッ!」
今度は私が声を荒げる番である。
「だって食べてるじゃん。こないだのクッキーもマフィンもみんなめっちゃ喜んで食べてたじゃん。私のお菓子づくりは正真正銘の食費でしょ」
「だったら僕の宅麺だって食べていいよ?」
「いらない」
お菓子づくり。オーブンこそ2万円ちょっとしたが、基本的には小麦粉と砂糖である。私はバターも使わないのでごくリーズナブルだ。だがそういう問題ではない。
あの油ギトギトの宅麺と、私の可憐でおしゃれなお菓子づくりが同じカテゴリーに分類にされたのである…!
「しかもayakoさんのお菓子づくりは時間もかかってるしねぇ」
楽しい時間もマイナスカウントされていた。価値観の違い、恐ろしい。
さて、結論はどうなったかといえば至極シンプルである。
現金で買い物したときも(肉屋や八百屋など)、忘れずに手動で家計簿アプリに入力する。毎週末、一週間に使った額や項目をチェックして、無駄がないか二人で確認し合う。
真っ当だ。いかにも地味で面白味がないが、これが現実である。地味で地道なトライアンドエラー、それが生きるということである。
今日の夕方も三人で買い物をした。
八百屋900円、スーパー800円、花屋400円。
夫は帰宅するなり、真面目な顔でさっそくアプリに入力していた。その顔が一瞬曇る。
「ayakoさん、花屋の400円はどう分類しよう…」
バジルを買った。バジルの苗と、それを入れる鉢で合わせて400円弱。このバジルは育てながら日々の料理に使われる予定である(私が購入する植物は基本的に食用なのだ)
「あのバジルは、食費だよなぁ。食費にしようッ!」
「そうしよう!」
私も真面目にうなづいた。400円。正確に言うと380円。妻に相談しつつ、バジルの苗を食費に分類する実直な夫である。見習おう。私も細かい食費をちゃんと記録しよう。丁寧に暮らすってこういうことに違いない…
「あッ!明日の宅麺の販売時刻が発表されたッ!」
神妙な顔でバジルの値段を入力していたはずの夫が、興奮の声をあげて口角を思い切り上げている。
「シルバー会員は12時からだ…忘れないようにしないと…プラチナ会員は10時から買えるみたい、凄いなぁ…」
宅麺は直近の購入頻度や金額によって、会員のランク付けまで始まったらしい。上のランクほど早い時間に購入できるという。
「ま、僕も本気出せばゴールドは簡単に突破できそうだけどね…」
ちなみに冷凍庫にはまだ宅麺のセットがぎっしり詰まっている。全然詰まっている。予算管理や引き締めの話はどこへ行ったのだろう。
我が家の総資産は、明日も順調に目減り予定である。
だが夫の目論見は半分は達成されたと言える。
私は細かく家計簿アプリをチェックするだろう。明日の宅麺の注文が、一体何に分類されるのか。
食費なのか食費じゃないのか。そればかりを気にする点は、まったくもって同士なのである。
Sweet+++ tea time
ayako
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