豚の角煮が憧れの「どこでもドア」だった話

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海外旅行が縁遠くなって久しい。

第一に新型コロナ流行があり、それ以前に子育て中であり、いや正直に言えば、そもそも旅行という行為は非常に面倒くさいという現実がある。

ホテルやら飛行機やらの予約に始まり、スーツケースのパッキング、空港の検査に真夜中のトランジット、時差ボケ、言葉の通じるかわからない世界でのあれやこれや…全てがワクワクすると同時に途方もなく疲れる所業だ。

慣れ親しんだ家でだらだらしたい欲求と、真剣に戦わなければ決行できない。

どこでもドアは、だからどんなに航空・旅行業界が進歩しようと、私のように怠惰な人間にとって今なお必要とされている「夢」なのである。

*・*・*

 

話は突然変わるようであるが、先日、近所の中華料理店の出前を取った。正確にいうとウーバーイーツ。

夫のチョイスで豚の角煮が来た(それ以外も大量に来たが)

三歳児がしらすご飯を食べるのを見守りつつ、こぼれ落ちるしらすや米粒を拾いつつ、いつもどおりの夕食時間が流れていた。夫は豚の角煮を口に入れた瞬間、固く目を閉じた。しばらくして、唐突にこう言った。

「ayakoさん、これ、飛べるよ…」

恍惚とした表情で、ひたすらに目を閉じている。豚の角煮の形をした、危険ドラッグでもやっているのではないのかこの人は。

「はあ…」

「ちょっと食べてみなよ…」

「私はいいよ」

即座に断った。脂が凄いのである。

とにかく夫はヘルシーと真逆の道を行く男であり、肉と言えば脂が全てである。我が家に鶏胸肉は登場しない。鶏肉はいつだってモモであり、豚肉ならバラ。素材はすべて、脂があってようやくスタートラインに立てるのである。

いま彼が夢見心地で咀嚼していた豚の角煮もまた、ブルブルとした白い脂が大半を占めている。いかにも夫好みの外見だが、あまりに容易に胸焼が想像できた。肉一枚でも、とにかく好みが合わない夫婦である。

「いいから、騙されたと思って食べてみてほしい」

「いや、いいって」

「これ、外国にいけるやつだから」

夫は言い切った。

そいういうことか。私は比較的脂の少なそうな部分を箸でつまむと一口食べた。

「目をつむってッ!」

怒号が飛ぶ。食のリーダーの指導は厳しい。こんなにも無意味に緊張の走る食卓があるだろうか。

だがなるほど、慌てて目をつむればそこは完全に香港の雑踏だった。ああ、これはそう、現地の街に充満しているあの、えもいわれぬ香り。どこからともなく漂ってくる、ここは外国ですよ中華圏ですよということを雄弁に教えてくれるあの風味。

「八角だね」

私は目を閉じたまま感動に浸っていた。

「そうか、八角か」

夫も静かに頷いている。

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キッチンの戸棚に眠る八角

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お正月に作った台湾焼き豚

八角、それは中華料理に欠かせないスパイスである。だがパクチーなどと同じように、独特で個性的な風味がある。好き嫌いも別れる。したがって日本で食べる中華料理にはあまり使われない。

「これはたまらないね…」

「完全に現地に行ける味だよね…」

私たちはひたすらに頷きあった。脂の嗜好こそこそ違え、二人ともこういった独特のスパイスが大好きである。

夫はまた脂部分を口に含むと同時に、目をつむった。もはや食事というより瞑想のようである。

「どうだった…?」

「台湾の、モーニング飲茶だった」

次は私の番である。脂が少ない部分を口に含む。目を閉じる。

「どうだった…?」

「香港の、船着場に向かうまでに歩いていた、夜の街だった…」

もはやありありと浮かぶ、雑多な店の連なりと、それぞれが夜に灯す明かり、気温も空気感もすぐ間近にあった。

「なるほど…」

こうして我々は、交互に豚肉を食べては脳内旅行を繰り返した。

その儀式は他のおかずにも順々に適用され、そのたびに期待は打ち砕かれた。商店街で買ったシュウマイを口に入れた夫は、目を閉じて苦渋の表情を浮かべる。

「だめだ…横浜中華街だ。それも入り口までしか行けなかった…」

チェーン店の餃子を食べる。

「ああ、どこにも行けない…美味しいけど、完全に近所のショッピングモールだよ…美味しいけど…」

あらぬ期待を背負わされ、シュウマイも餃子も迷惑でしかないだろう。

*・*・*

 

どこでもドアは、思わぬところに仕掛けられている。

パスポートが期限切れでもツアーを予約する気力や貯金がなくても、こんな世の中でも。もしかしたら今夜行けるかもしれないのだ。スパイスと想像力豊かな舌さえあれば。

長々と語ってきたが、結論をここに書こう。

金曜日の夜である。キッチンに眠っている八角のことは今日は置いておいて、ウーバーイーツを許可したい。

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日々の食費で本物の旅行ができそうだよ。

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Sweet+++ tea time
ayako

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