今日は久しぶりに、朝から本格的な雨が降っていた。
雨の日は特別だ。街全体がすっぽりと海に抱かれたように、木々も古い建物も軒先の植物たちもみなしっとりと濡れて、どこか神秘的な息遣いを感じる。
晴天の光に満ちた光景は文句なしに美しいけれど、雨には雨の優しさがある。
一年前、ちょうど臨月の頃、雨の清澄白河をお散歩したことを思い出した。
グーグルフォトから発掘した写真たちで、懐かしい日々をちょっとだけ振り返ってみたい。
曇天で彩度の落ちた静かな街。
人通りのない商店街に、重みを増した街路樹の葉、降ろされたままのシャッターに、くずれかけた植木鉢から腕を伸ばすように息をする軒先の雑多な植物まで。
日々の営みでくすんだり淀んだりしていたあらゆるものたちが、ゆっくりと洗われていく。
清澄白河といってもその範囲は意外と広くて、人を案内するときはどこに行こうか迷ってしまう。
流行りのカフェも美術館もあるけれど、この資料館通りはのどかで優しい下町感に満ちていて、いちばん街の雰囲気が伝わる気がする。
霊巖寺の前に佇むお地蔵さま。いつもカラフルに飾られていて大事にされている。その前を通るとなんとなくよい気持ちになる。
日常に疲れていると生活の隅々が投げやりになってくる。自分を大事にする、というのは使い古された表現だけど、休んだり洗ったり飾ったり、自分に手をかけて大事にしてあげたい。
そのまわりには人を良い気持ちにさせてくれる空気が必ず生まれるはずだから。
王子はこの数日後、ツツジと紫陽花が両方咲いている季節に生まれたのだ。
iki ESPRESSOは一日中、朝食メニューが食べられるカフェ。あの頃、こんなふうに一人で静かに過ごせるのは最後かもしれないと、ドキドキしていた。
今日は児童館で、一歳二ヶ月になった王子の荒々しいおままごと(主に電子レンジを激しく開け閉めする)を眺め、放り出された鶏肉のおもちゃをひたすら拾っていた。そう、あの日の予感は当たっていた。
雨の日も晴れの日も、臨月は安産のために毎日せっせと散歩していた。
下町の軒先には青紫色の紫陽花がとてもよく似合う。
浜町から人形町もよく歩いていた。
都会の交差点に咲く紫陽花はあざやかなピンク色だった。
高橋のラハンで定食ランチを食べたり、
かわいい猫をのあとをそっと歩いたり、
桜の季節が終わった常盤の深川芭蕉通りはがらんとしていて。
なんでこんな地味な風景を撮ったんだろうと思ったけど、消さなくてよかったなぁ。思い出はいつだって空気に宿る。決して華やかなイベントにではなく。
重いお腹と不安と希望をいっぱいに抱えて、ゆっくりと歩いていた日々の記録。
これからも生活の匂いや温度が思い出せるような、写真を撮っていけたらいいな。
まさか一年と二ヶ月後、絵本攻撃から逃げ回るあまりにも理想的な母親になっているとは想像もしてない頃の話である。
Sweet+++ tea time
ayako
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