ちょっとずつ諦めて、明らかになる、今のわたしの小さな道

いろんなことを、ちょっとずつ諦めてしまう日々だなぁ。

次男が一歳になり、トコトコ歩くようになった。歩くだけでなく、そこらじゅう登り、あらゆるものを引っ張り出し、片っ端から口に入れる。

彼が輝かしい成長を遂げ行動範囲を広げるにつれ、私の好きなものはリビングからいよいよ締め出されてゆく。ヴィンテージの食器類もお菓子のレシピブックも、刺繍部屋という名の物置部屋へと押し込められた。ベランダの花は無惨なまでに枯れ果て、作りかけのアクセサリーは夏以降手がつけられず、作業机の上で化石と化している。完全に時は止まった。

長男が生まれたとき、変わらずにいたいと思う自分がまだいた。実際、そんなに急激に変わるものでもなく、赤子が産まれてもしばらくは自分の時間がたっぷりあった。

赤ん坊が動き出し、歩き出し、昼寝をしなくなり、そして子どもが二人になり、今やどこへ行くにも未就園の四歳と一歳を連れている。「変わらない」どころではない、完全に別次元にいる。

ずいぶんと遠くに来たなぁ…花かごをぶら下げてちょっとハイキングと思って出発したら、重いバックパックを背負って険しい山道をひたすら登っている!

*・*・*

 

そんな今現在のわたし、かわいい服を着てるマネキンを見ても、試着する時間があるわけもないし…とトキメク気力すら失っている。

育てたら綺麗だろう花の苗、飾ったら素敵そうなブーケ、塗ったらいい香りがしそうなボディークリーム。そのすべてが遠い。いい感じのカフェとかお菓子のレシピを雑誌で見かけても、とにかく今はぜんぶ無理だ…と手を伸ばすこともしなくなってゆく。

頑張ればできないことはないかもしれないけど、そのためにイライラしたり疲れてしまうなら、やらない方がいいなぁと思ってしまう。

それで冒頭のこの言葉なのだ。

いろんなことを、ちょっとずつ諦めてしまう日々だなぁ。

そう思うとき、わたしの胸の中には、高校時代、倫理の授業で習った知識の断片が浮かび上がる。

「諦める」という言葉のもとは「明らむ」。諦めるとは、本来、何かを投げ捨てるようなネガティブな意味ではなく、真理を明らかにするというポジティブな意味なのだと。真理が明らかになる過程で、何か達成できない物事について納得し、思いを断ち切るという、仏教用語が由来となっている。

そしてその小さな知識は、今の私をとても明るく照らしてくれる。

今、やるべきこと。できること。その中でやりたいこと。無数のできないことが影になって、くっきりと見える輪郭からは、真っ直ぐな光が差している。

読むこと(知ること)、書くこと、幼子たちと今日も楽しく生きること。

何でもできるなかで選ぶのは難しいけど、何にもできないような気がするなかでもやってしまうことは、きっと自分にとって特別なのだ。

毎月10冊以上、ときには20冊近く本を読んでいる。そして子ども時代以来の、読書体験の愉しさに開眼している。読むことは知ることで、知ることは人生の道標になる。

眠ってばかりサボってばかりの高校時代、でも宗教や哲学を扱う倫理の授業だけは大好きで、エアコンもない古い校舎でひたすらノートを取った。そんな15歳の自分が得た一片の知識に、34歳の自分が励まされている。

子どもと過ごす日々は、二度と戻らない一瞬という、小さな永遠の積み重ねである。だから私は今の日々を、とても大切にしたい。大切な、輝く時間として記憶したい。などと書くと素敵なママ感が凄いが、もちろん幼稚園よ早く始まれッ!と定期的に四月の到来を念じている。念じているのだけれど、今の日々もまた、とてもすてきな時間だと思っているのだ。

いろんなことをちょっとずつ諦めて、明らかになる、今のわたしの小さな道。

読むこと書くこと幼子たちと今日も楽しく生きること。

ゆっくりと移ろう景色を心に留めて、踏みしめて歩きたい。

ちなみに昨夜は23時まで二人とも暴れていた。

一歳の誕生日フォト日記も書かなくては!

今週も折り返し、起伏豊かな山道を(ヒーヒー言いつつ)朗らかに登りたい。

Sweet+++ tea time
ayako

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