破滅的においしいコーヒーを飲んでしまった。
正直、今までで一番だった。
などと聞けば「どこで幾らでどんなコーヒーを?」とすぐさま正解が知りたくなるSNS時代であるが、私は破滅的な美味しさとともにとある人生哲学の真実に行き着いてしまった。
答えだけを丸写ししても、次回のテストの点数はおんなじだ。ここは皆さんに応用可能な公式そのものを伝授したい。
買い物は面白い。
なぜならそれは、モノと自分を掛け合わせて価値を生み出す行為だからである。
モノの価値とは何であろう。基本的に課金する額を上げれば、多かれ少なかれ良いものを手にすることができる。
例えばランチ。1,000円より3,000円、3,000円より5,000円の方が豪華と予想される。鰻重の松竹梅なら量が多くなる。
バッグなら5千円より2万円、2万円より10万円の方が長く使える高級なものというイメージだ。
だが忘れてはいけないのが、モノの価値というのはモノの側に100%委ねられているわけではないということだ。買い主であり持ち主である私たちの側の事情にも大きく左右される。
例えば一着のワンピースがある。
暴飲暴食に寝不足の運動不足、好きじゃない自分で買う一着と、心地よく生活を整えられていて心身ともに好きな自分、似合う自分で買う一着は違う。
鏡の前に立ったときの喜びや満足感は、服のポテンシャルだけではない。髪や肌の状態や体型、それをもたらす毎日の暮らしぶりがバックボーンとして存在するのだ。
スカーフ一枚、口紅一本、何をとってもそう。出会い方だって重要だ。
手持ち無沙汰な気持ち、物寂しさを埋めるために買ってしまったものと、初めてのお給料で張り切って買ったもの。
同じ商品でもシチュエーションや年齢、その日のコンディションありとあらゆるこちらの事情が、モノの価値と買い物の意味を変えてしまう。
どちらが良くて悪いなどといった短絡的な話ではなく、ただ、変えてしまうのだ。
何か素晴らしいモノを手に入れたい。大なり小なりそう願って手を伸ばし続けることが生きることとほとんど同義である現代において、だから私たちは思い出さなければならない。
手を伸ばす「こちら側」のコンディションもまた、いかに重要な要素であるかを。
冒頭の話に戻るが、先日、破滅的においしいコーヒーを飲んでしまった。正直、今までで一番おいしかった。
まず大前提として、私はほぼ毎日一杯100円のコーヒーを飲んでいる。普通にとても美味しい。某国民的ハンバーガーチェーン店が提供してくれる紙コップのホットコーヒーSサイズである。そしてその日も飲んでいた、全く同じコーヒーを。
薄々、勘づいてはいた。
もしかして、毎日、味が違う…?
冷静に考えて、そんなことはあり得ない。巨大フードコートの巨大チェーン店、厳格なマニュアルにコーティングされた不動の一杯、マスターの気分とか豆の種類とか器の薄さとかに影響されることのない、守られしパッケージ化された一杯である。
だが不思議と違った。毎日律儀に変わった。しみじみと深みを感じる日、単なるコーヒーの日、飲み終わらなくて持て余す日があれば、細胞一つ一つを震わせるような美味しさの日がある。
その日はまさに、震えていた。一口飲んだ瞬間から、身体中の細胞が震えながら喜んでいた。
こんなに美しい飲み物を口にしたことがあるだろうか。
ホテルでサーブされる一杯1,000円のコーヒーも、サードウェーブ系カフェのこだわりハンドドリップも、記憶のすべては地上のもので、それらを懐かしく眺めながら、今遥か遠くに飛んでゆく私がいる。
完全に未知の飲み物に接していた。
知らなかった。香ばしさとほろ苦さが合わさると優しさになる。それがコーヒーという飲み物なのだ……
さて、お察しのとおり、
この日の私はめちゃくちゃ疲れていた。
駅までベビーカーを押して歩き、四歳〇歳を連れて電車に乗り、いつもと違う公園でエンドレス砂場、エンドレス滑り台、エンドレスブランコ、エンドレス〇〇…
究極に疲れるまで終わらない。それが四歳の遊びスタイルである。12時までに終わらせて昼食をとろうとか、一時間でどの遊具も程よく回ろうとか、そんなことを考えないのが子どもの素晴らしい輝かしさである。
そしてその輝く生命力の傍らで、生気を吸い取られ無の表情になっているのが、母という顔をした私である。
「そろそろ帰ろう」「長い針が6に来たらおしまいね」「あと10回押したら帰ろうね」「最後に2回滑ったら終わりにしよう」
あらゆる声かけは虚しく宙に浮き、駆け回る四歳に翻弄され、グズり出しそうな〇歳児に冷や汗をかく。10月下旬の午後、思いのほか空気は冷たく、手は凍え、立ち尽くした足は徐々に感覚を失い始める。
そんな途方もない公園時間を経て、数多の声かけの後に電車に乗り、最後にたどり着いたいつものフードコートの、極上の一杯であった。
ここまで読んだあなたは思ったであろう。あれ…まさかこれで話が終わりだと…?
興奮気味に語ってきたが、要するに「疲れてるときに飲むコーヒーは美味しい」という話である。え、そんなの当たり前じゃん。「空腹は最高のご馳走」といった使い古された慣用句があるように、古来からの人類あるある。だが待ってほしい。
ここには画期的な真実が隠されている。
分かりやすく言うと、「希望」である。
極上のコーヒーを飲む方法と言われて、思い浮かぶものを挙げてみよう。
豆にこだわる、道具に凝る、誰かが丁寧にいれてくれたもの、喫茶店のティーカップの繊細な口当たり、ホテルのラグジュアリー感がもたらす優雅な一杯。
そのどれもが、なんだかんだ何かをプラスして得られるものだ。お金、時間、手間、センス、空間。
だがあの至高の一杯はなんだ。
いつもと同じ100円コーヒーが、フードコートの画一的紙コップコーヒーが、稲妻に打たれたように輝く美味しさに包まれた。あの天地をひっくり返す一撃よ。コーヒーの美味しさを決めるのは、コーヒー側だけではない。その途方もない頼もしさよ。
こちらがすり減るほどに、コーヒーは美味しさを増すのだ。
それはつまり、お金も時間も手間もセンスも空間も、何ひとつプラスできないとしても、最高の一杯に出会える可能性が常にある、という希望である。
さあ、今日も明日も明後日も、喜んですり減ろうではないですか。
毎日がくじ引き。明日が史上最高に疲れる日になるかもしれない。それはつまり、史上最強においしいコーヒーにありつける日という意味でもある。
毎日がめくるめくコーヒー記念日の可能性を帯びてくる、それが生きるということなのだ。
(一週間、おつかれさまでした!)
Sweet+++ tea time
ayako
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