待つこと。
それは時として人を狂わせる。
好きな人からの返信が遅い。家族の帰りがいつなのかわからない。試験の結果発表までの不安な日々。すべては「待つ」という行為が与えるしんどさなのだ。
だから私たちは工夫しなければならない。
待たなくていいように、待っていることを、忘れるように過ごせるように。
先日、こんなツイートをした。
いつの間にかとても成長していて、ベビーカーも乗らず手を繋いでめちゃくちゃ歩くので、普通に大人みたいなお出かけができるようになった。
— ayako | 刺繍して書くひと (@Sweettteatime) October 12, 2020
公園より道路歩いてどっか行く方が好き、ごっこ遊びは興味なし、服へのこだわりゼロ、数字と絵本と乗り物をこよなく愛する男子となっている。#二歳三ヶ月
ずいぶん成長したなぁと思う。たくさん歩くし抱っこも不要、ふたりでカフェにも入れる。
そう、日々は穏やかだった。
だが事件は突然起こるから事件なのであり、二歳児といえば気まぐれ、成長とダイエットは一歩進んで二歩下がるもの。嵐の前はいつだって静かなのである。
九月最後の一週間。涼しくなり、息子ははさらに人間らしくなり、もうすべてが輝いて気持ち良い秋晴れの日。
浜町から人形町のあたりをぶらぶらお散歩していた。わりに定番のコースである。
浜町公園の小さな池で、光る水面をのんびりと見つめていた。鳩だねぇ、スズメだねぇ、かわいいねぇ、涼しいねぇ。
すべてがスムーズだった。手もつないでくれるし、ちゃんと言うとおりに歩いてくれるし、何より涼しい。夏が終わっただけで子育てはパラダイスである。
さて、公園を散歩した帰りである。よくある小便小僧の像があった。「男の子チッチしてるね〜かわいいね〜」などと眺めていた。
まさかこの像が地獄の始まりだとはつゆ知らず、今思えば呑気なものであった。数分が経過した。
簡単に言おう。
動かない。
あなたも像になったのですかというレベルで、微動だにせず立ち尽くして眺めている。
「そろそろ行こうか」「しゅっぱ〜つ!」「お散歩しよう!」「橋を渡って船を見ようよ!」「大きな川(隅田川)見に行こう〜」「おうち帰ってカレー食べよう!」
「もうちょっと見る」
ありとあらゆる声かけが無に帰す瞬間である。
「もうちょっと、さいご」
彼の「さいご」はもちろん100回くらいある。
赤子の頃のように、ひょいと抱っこして運べたら造作無い。だが今は、15.5キロという重さもさながら、意思に反して運ぼうとしようものなら絶叫で大泣きの癇癪爆発となる。完全に手に負えなくなるのだ。
街中でトラブルは避けたい。
私は優しい天使の掛け声を続けていた。
「しゅっぱつしんこ〜う!」「あッ!黄色いタクシー来たよ!見に行こう〜」「レッツゴー!」
ひょうきんな声が虚しく響く。
手をつないで「急げ〜急げ〜!」と言うと大喜びで走りだすので、その手ももちろん使ったが、数十メートル進んだところで、こうである。
「戻ろう。もうちょっと見よう」
ものすごい力で小便小僧の元へ帰っていく。ジュース作戦も同じ結果を招いた。震える。
何が決め手になったのか、今となっては思い出せない。ただ、あの手この手を尽くして繰り出した何かの声かけがヒットしたのだろう。何十分も釘付けになっていた小便小僧から、二歳児の気を逸らすことに成功した。
手をつないで歩き出してくれた。やった!これで家に帰れる!お魚屋さんでお弁当を買って帰ろう。
穏やかな散歩ってすばらしい!
安堵して余裕を取り戻した私を第二の絶望に突き落としたのは、金魚であった。
お分かりだろう。
動かない。
「赤いお魚さん泳いでるッ!」「金魚さんカワイイッ!」
「ほんとだねぇ、かわいいねぇ!鯉もいるよ」
最初は私も微笑んでいる。たどたどしい会話に、健やかな成長、かけがえのない日常の断片、なんて愛おしい時間なんだろう。
だが数十分が経過し、同じ場所で同じ会話が繰り返されているとしたらどうだろう。
「赤いお魚さん泳いでるッ!」「金魚さんカワイイッ!」
「そうだね、赤いね、かわいいね」
なぜここに金魚など泳がせたんだ。
相槌を打つ目は遠く、私の心を去来するのはただ一つ。
家に、帰れるのだろうか。
何が決め手になったのか、今となっては思い出せない。ただ、あの手この手を尽くして繰り出した何かの声かけがヒットしたのだろう。何十分も釘付けになっていた金魚から、二歳児の気を逸らすことに成功した。
ここ最近の散歩がスムーズだったので、すっかり油断していた。帰り道だということを察知している彼は、なかなか進まない。このあとも様々なトラップに立ち止まり、私は待ち、ひたすら待ち、声かけを工夫し、順調にスタミナをすり減らしていった。
もう何度目かの歩き出してくれた瞬間、この貴重な歩みを二度と止めまいと、祈る気持ちで進んでいる中で、彼がいた。
危険だ、瞬時に察知した。
このフクロウは我が家の二歳児を惹きつける何かがある。一切のコメントをせず素通りした。まあ、少し路地を入らないと見えないし、大丈夫だったのだろう。ほっと胸をなでおろした瞬間、歩みが止まった。
「フクロウさん…?」
誰ですか、窓際にフクロウなんて置いたのは。
幾つものトラップに足止めをくらい、疲労は溜まり、私のスタミナは尽き、二歳児は家と逆の方向に走り出そうとする。
絶体絶命の我々を、救ってくれたのはやはり、あの方だった。
親愛なる都営バス。
あの日、私はあなたのおかげで家に帰れました。
フクロウを、金魚を、小便小僧を配したのも神ならば、癇癪を爆発させた二歳児の、ちょうど目の前にバス停を配してくれたのもまた、神なのである。
バス停が…ある…
歓喜した私が最後の望みを託してチェックした時刻表は、なんと二分後に到着予定だと告げていた。そして方向は帰り道。ああ、これを奇跡というのですね。
秋、ほんとうに美しい季節ですね。
どんな実り豊かな果物も、どんなに華やかな紅葉も、しかし都営バスにはかなわない。あの、凛々しい佇まい。いつだって二歳児を魅了し、すみやかに運んでくれる神々しい乗り物。
あれから、また穏やかな日々が続いている。
だが油断は禁物であり、いつだって工夫と用心が我々を救うのだ。石橋は叩こう。全力で叩いていこう。
同じ児童館と支援センターに通い、たまに別の街を歩くときは、必ず帰りを地下鉄かバスに設定する。金魚にも、フクロウにも、もちろん小便小僧にも、もう帰路は邪魔させない。
二歳男子との楽しい毎日、それはいつだって作戦と工夫と用心の上に成り立っているのである。
Sweet+++ tea time
ayako
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