世界が広いと知るための入り口を用意しよう / 『ときどき旅に出るカフェ』

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「一日中家にこもってると、なんかどんよりしちゃうよね」と雨の日の夫は言う。

うんうん、と頷きながらキッチンで右往左往している私に、続けてこう言った。

「でもayakoさんは、全然そんな感じしないよね…?」

背中越しに、バレましたか、と思った。そのとおりである。

実際のところ、一日中家にいてもまったくもって平気である。むしろ快適でしかなく、やりたいことは次から次へと湧いてくる(三歳児に絵本を読んでいるときは睡魔と戦っているが…)

正直、この状況に一番びっくりしているのは私自身だ。長年、自分のことをおでかけ好きだと信じてきた。まさか家で何かを作ったり書いたりするのが、こんなに楽しくて好きなことだとは。コロナ禍における最大の気づきと言ってよい。

*・*・*

 

この世で一番好きな場所は自宅のソファだ。

ときどき旅に出るカフェ』という小説はこんな一文から始まる。

主人公の瑛子は、だからといって満ち足りた日々を送っているというわけではなく、

ソファの上にいるときは幸せな気持ちでいられる。だが、その幸福感には、いつも憂鬱のベールがかかっている。

憂鬱のベール、それはすなわち「先々の不安」とも言えそうだ。変わらない不安、変わったとしても悪い方を想像して次々と浮かび上がる不安。

瑛子の場合はそれが「三十七歳、独身、一人住まい、子供もいないし、恋人もいない」といった状況として描かれるが、ときに不安に押しつぶされそうになるのは、誰しも経験することかもしれない。

不安の種というのは摘み取り切れるものではなく、大なり小なりみんな抱えて生きているのだから。

*・*・*

 

そんな瑛子は週末の散歩で、近所に小さな一軒家「カフェ・ルーズ」を見つける。偶然にも六年前、会社で一緒に働いていた後輩が始めたお店だった。

この小さなカフェを舞台に繰り広げられる「かわいいミステリー」が連作短編として一冊にまとまっている。人が死んだりするわけじゃない、日常に潜む小さな謎解きの数々。

軽やかなパイ菓子のようにサクサクと読み進められて、それでいて胃にはちゃんと存在感がある(パイってバターの塊だもの)、そんな感じの読み応えたっぷりな小説。

中身の物語ははぜひ読んでもらうとして、心に引っかかった二つのことを記しておきたい。

「絶対」と決めてしまうとかえって不自由になる

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カフェ・ルーズは月の初めが一週間ほど休みになり、そこで店主の円(まどか)は旅行にでかけ、旅先のおいしかったものを再現してお店に並べる。

買ってきたり仕入れてくるものもあれば、レシピを探して自分で試作を重ねるものもある。

アルムドゥドラー、苺のスープ、ロシア風ツップフクーヘン、チェー、月餅、鳥梅酥(ウーメイス)、ドボシュトルタ、香港式ミルクティー、アロス・コン・レチェ…

聞いたこともないような外国のお菓子や飲み物が次々と出てきて、そのスイーツの特性が物語展開の鍵にもなっている。美味しくてかわいいミステリー小説といおうか。

そんな営業スタイルのカフェであるから、瑛子はこう尋ねる。

「ねえ、来月はどこに行くの?」

店主の円は、まだ決めていないと答える。お金が厳しいから店で試作をするかも、と。

「絶対旅に出ると決めちゃうと、かえって不自由だし、いろいろ見失ってしまうから、決めないようにしてます。」

旅に出る、というのは自由の象徴のような行為だけれど、それを「毎月絶対」と決めた瞬間に、不自由さを伴う。

がんばらない、というのは緩さの象徴のような行為なのに、「絶対がんばらない」と思った瞬間に意味が変わってしまうのと似ている。たまに頑張ってもいいし、そのほうが自然でラクだ。

外国に行けなくても、世界が広いと知るための入り口を

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物語の終わりの方に、バクラヴァというトルコのお菓子が出てくる。

びっくりするほどド甘いのに、現地の人はぱくぱくと美味しそうに食べている。日本で「甘さを抑えなくては」というプレッシャーの中で息苦しくお菓子作りをしてきた円は、この異国のスイーツに心を解き放たれることになる。

瑛子はその話を聞いて、カフェ・ルーズのことをこんなふうに思う。

ここは入り口なのだ。海外には簡単に行けなくても、世界が広いと知るための場所。円がバグラヴァの甘さに救われたように、なにかに救われる人もいるのかもしれない。

外国の毒々しいくらいカラフルなケーキとか、とんでもなく甘い味付けのスイーツ。家で料理しない生活スタイルがあれば、各家庭お手製の弁当を専門業者が毎朝オフィスへと運ぶムンバイのような街もある。

こうでなくてはならない、といつの間にか思っている数々の"常識"を、爽やかに裏切ってくれる出会いの尊さよ。

今すぐ海外旅行に行けなくても、「世界が広いと知るための入り口」を身近に用意しておけば、自分を生活の息苦しさから解放することができる。むしろ、そんな場所を自ら探して見つけておくことが、心地よく生きるために必要だとも言える。

瑛子にとってそれはカフェ・ルーズであり、本当にそんなお店が家の近くにあったらいいのに…!と羨ましくてならないが、今は旅行はおろかカフェにも行きにくい私にとっては、本と料理だなと思う。

小説は、実用書やインターネット検索とちがって、意図せず何かを知ったり考えたりできる場所だ。散歩に似ている。

料理もまた出会いと冒険に満ちている。見知らぬスパイスを使ってみて、これがお店のあの風味と繋がっていたのかあ…と感嘆したり、外国のキッチンや料理写真を眺め、気合とタイミングが合えばだけど自分でもレシピを探して作ってみたり。そんな一つ一つは心を確実にやわらかくしてくれる。

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「絶対」のルールを自分に課すのをやめること、広い世界への入り口を用意していくこと。

こんな時勢で、家の中で過ごしていると気づかぬ息苦しさに埋もれてしまうかも…そんなときこそぜひ手に取ってほしい小説だと思った。

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一昨日はレシピを調べ、昨日は材料を注文した。今日はピロシキの中身を作ってみよう。毎日ちょっとずつです。

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Sweet+++ tea time
ayako

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