バスは記憶と結びついた乗り物だ。
電車なら乗り換え案内のアプリを使って、秒で目的地への行き方がわかるのに、バスはいったいどんな路線がどんな経路で通っていて、どこにバス停があって、何時にバスがきて、それに乗るとどこに行けるのか、運賃はいくらで前払いなのか後払いなのか、瞬時に分かる方法がない。あるのかもしれないけど、知らない。
バスはなんとなく面倒なイメージの乗り物で、実際に住んで近所の人に教えてもらってようやく、乗れる。
私にとって、だからバスに乗るのはちょっぴり地域に溶け込むことだし、そこには必ず誰かの存在があったりする。
子どもの頃、千葉県の東習志野という場所に住んでいた。近くのバス停から津田沼のPARCOの前まで行けることを、母に教えてもらった。
小学生の私にとって、PARCOは可愛い雑貨屋さんや洋服屋さんが詰まった宝箱みたいな場所で、友達と日曜日にPARCOに行く日はバス停でバスを待っているときからワクワクしていた。
高校一年生の頃、漢文の授業を受けに予備校に通ったのも、そのときに財布を忘れて無賃乗車してしまったのも、思えばこのバスだった。(運転手さん、ごめんなさい)
白金高輪で一人暮らしをしていた頃、同じマンションに住んでいる人に教えてもらって、四の橋のバス停から渋谷に行けることを知った。おしゃれな食器を買うときは渋谷のマークシティーに行くことが多く、ときどき乗った。バスに乗って渋谷に行けるなんてなんだかすごい!と感動した。
ある日、友達がマフィンを焼いて遊びにきてくれることになり、「ティーポットがない!」と慌ててバスに乗り、渋谷で白いティーポットを買ってきたのも懐かしい思い出である(なんと無駄な外出!)
私はカトリックの信者で、OLの頃はよく麻布カトリック教会の聖書講座に通っていた。仕事が終わったあと六本木の駅から歩いて、閑静な住宅街の中に現れる瀟洒な教会の建物を見上げると不思議な気持ちになった。みんなで聖書を読んだり、ときどきお菓子やお茶もでて、とても楽しいひとときだったのです!
そこで知り合った方からちょうどいいバスが出ていることを教えてもらい、麻布から白金高輪まで、地下鉄ではなくバスに乗って帰るようになった。
夜に浮かぶ東京の知らない街並みが、バスの窓越しに光の尾をひきながら流れて行くのは綺麗で楽しくて、地下鉄でiPhoneを見ているうちに過ぎる数分よりもどこかいい気分にさせてもらえる。
バスに乗って帰るまでの時間も、すごく好きだった。
清澄白河で二人暮らしを始めて、バスが大好きな夫がいろいろ調べてくれるようになった。茅場町までバスに乗って、そこから歩いて東京駅に行ったり。お台場までバスに乗って、海沿いを歩いたり。吾妻橋までバスに乗って、浅草をぶらぶらしたり。
歩いても行ける場所でも、いつも通っている道であっても、バスに乗って景色を眺めるのはどこか新しいし楽しい。
ちょっと高い座席から、ライトアップされたオレンジ色の新大橋や、無数の船が行き交う隅田川を眺めるのはちょっとロマンチックに感じる。
千葉の実家も最寄駅からバスに乗る。帰るとき、バス停まで母が送ってくれたりすると、何度も手を振ってしまう。
夫とガイドブック片手に、緊張しながら乗ったハワイのバスも香港のバスも、東京や千葉の何でもない普通のバスも、すべて忘れられない記憶と結びついている。
東京の地下鉄と比べたら不便なバスという乗り物だけど、でも「不便だから嫌い」にはならないのだ。
不便でも楽しかったり、優しくないのに好きだったり、体によくないのに食べたくなったり。
私たちは、単純じゃないんだよなぁ。
バスの車窓からキラキラしたり地味だったりする街並みを眺めながら、私はいつもそんなことを思っている。
休日くらい、最短経路じゃなくてもいいかもね。
Sweet+++ tea time
ayako
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