生きていくのに忘れちゃいけない二つのもの、知ってますか?
高校一年生のとき、土曜日はバスに乗って予備校に行っていた。おじいさん先生の漢文の授業を受けるために。生徒は私ともう一人しかおらず、その子は部活の試合などで欠席が多かったので、暇な私の出席責任は重大だった。
とある土曜日、私は家で予習を済ませ、漢文のテキストを眺めながらバスに揺られていた。時折窓の外を眺めると、初夏の日差しが霧雨のように街に注いでいた。自分が降りる終点のバス停に着いた。さあ、とバッグをまさぐって青ざめた。
財 布 が な い 。
今みたいにPASMOなどまだ流通しておらず、私の乗るバスは後払いであった。
どうしよう…
というか、どうしようもなかった…
私は運転手さんに必死で謝り無賃で降ろしてもらった。すっかり項垂れていた。申し訳ないし、情けない。(運転手さん、本当にごめんなさい)
落ち込みきったところで気づく。帰りのお金もないではないか。
今度は漢文のおじいさん先生に事情を話し、帰りのバス代に500円玉を貸してもらった。翌週返すため、私はまた休まず授業に通うのであった。
情けない。非常に情けないけど有難かったなぁ。
思えば高校生の頃は、日々学校に行くだけなら、お財布を忘れたり携帯電話を忘れたりしても全然平気だったのだ。時期定期券をパスケースに入れて通学鞄にぶら下げていたし、お弁当や水筒も持ってたし。お金を使わなくても、一日を過ごすことができた。
それでうっかり、財布を持たずに予備校に行ってしまったのかもなぁ。(うっかりすぎ)
さすがに大人になって、お財布やiPhoneを忘れたら大変である。リアルなウォーキング以外は何もできないしどこにも行けない。だからそういうドジも減ったなぁ、と思っていた。
昨年の秋頃、私は散歩がてら浜町日本橋のドトールに行った。完全分煙ではないドトールらしく、自動ドアが開くと煙草の匂いとコーヒーの香りが混ざりあったような空気がふんわりと流れてきた。ちょうど私の好きなヨーグルト系の飲み物が出ていたので、それを注文した。
スタバではお会計を済ませたあと、赤いランプの下で飲み物の出来上がりを待つというスタイルであるが、ドトールはレジでそのままドリンクを受け取る。
「340円になります」
「はい」
バッグをかき回して、私は青ざめる。
財 布 が な い 。
バッグの中には文庫本が2冊も入っているのに、肝心の財布がない。PASMOもないので電子マネーも使えない。
顔を上げると、すでに私の注文したヨーグルト系のドリンクは出来上がり、小さなトレーに乗ってスタンバイOKの状態であった。
ドトール、仕事早し!
感嘆している場合ではない。店員さんは朗らかな接客スマイルを浮かべて、私が財布を出すのを待っている。
心の中で、滝のような汗をかいていた。
どうしよう…
というか、どうしようもなかった…
「す、すみません。お財布忘れました…」
さっきまでマニュアル通りの微笑を浮かべていた店員さんが、え?という顔をする。え?どういうこと?というしばしの沈黙。
「本当にすみませんでした!」
後ずさる私に
「あ、か、かしこまりました〜」
ちなみに、このとき私の顔は真っ赤であった。
すると、後ろに並んでいたサラリーマンの男の人が「僕が払いましょうか?」と衝撃の提案をし、私の恥ずかしさはMAXに達した。
「だ、大丈夫です!本当にすみませんでしたッ!」
丸顔を赤くして、私は謝りまくりでドトールをあとにしたのであった。
ドトールの方、情けをかけてくれたサラリーマンの人、本当にごめんなさい。
15歳の頃も財布を忘れていたが、そっから約2倍生きてもなお私は財布を忘れているのである。
「いろんな人に助けられて、今日の私がいます」
とはよくある台詞であるが、この「いろんな人」の中には家族や友人のみならず、バスの運転手さんに漢文の先生、ドトールの店員さんにサラリーマンの方、私のドジに巻き込まれたたくさんの人が含まれているのだ。
感謝の気持ちと財布。
生きていくのに、私が絶対に忘れてはならない二つのものである。
この歴史に関しては、これ以上積み重なることがないことを、祈るばかりだよ。
Sweet+++ tea time
ayako
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