曇り空で、なんとなく気分の上がらない平日の朝の出来事である。ピンポンが鳴ってドアを開けたら、宅配便の配達員が重い段ボール二箱を抱えて立っていた。
短い挨拶にサインの受け取り、玄関の中に重い二箱を置いてくれ、また挨拶をしてエレベーターに駆け足で乗っていく。余分なところがなく、テキパキとしていて感じが良く、その働きぶりは本当に爽やかであった。無駄がなく清々しかった。
玄関のドアを閉めて「よし、私も頑張ろう!」と机に向かったとき、私の心はすっかり上向きになっていた。
私はそのとき注文していた商品よりもずっと大事なものを受け取っていた。
「人に感動を与える仕事」ってなんだろう?
小説や映画、演劇や絵画。芸術に触れたときの感動というのは、分かりやすく大きい。圧倒的な心の震えがある。
でも感動の種類はもっとたくさんある。
いつの間にか丸まってしまった背中をピンと伸ばしてもらうような。いつの間にか下を向いた首を、すっとあげて前を見据えるような。
その日、私は"今日を生きるエネルギー"をもらった気がした。
何の仕事をするかよりどんなふうに働くか
「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマで、働く二人のこんなセリフがあった。
「仕事の半分は『しょうがない』でできている」
「もう半分は?」
「『帰りたい』」
これ、もうすごくよくわかる!
会社員をしていた頃、まさにそんな感じであった。だから常に模索していたし、何か他にできることはないかなぁといろいろやってみた。おばあさんになるまで、仕事の悩みは尽きないのかも。
「何の」仕事をするかって、やっぱり大事だ。本当にそう思う。でもそれだけじゃないんだってことも、強く感じている。
「何の」にとらわれすぎて、「どんなふうに」働くかを忘れないようにしなくちゃと、私は今日も背筋を伸ばす。
私たちが選べないもの選べるもの
「人生は思い通りに選べる!」と声高らかにうたう自己啓発書はたくさんあるけど、私にはわからない。
思い通りになることもあれば、ならないこともある気がする。でもそれは決して悪いことではなくて、思い通りにならないおかげで想像しない楽しさに出会えることもある。
生まれ育った環境、才能や素質、性格、健康状態、時代。
すべての人が自分をとりまく無数の網の中で、「何」や「どこ」を選べたり選べなかったりしながら今日を生きている。
でも唯一、「どんなふうに」だけは、私たちが自由に選び取るところができる領域なんじゃないか。
「何の」仕事をするかより「どんなふうに」働くか。
「何を」食べるかより「どんなふうに」食べるか。
「どこを」旅行するかより「どんなふうに」旅するか。
「どこに」住むかより「どんなふうに」暮らすか。
「どんなふうに」の部分は、神様が与えてくれた無限の自由であり、贅沢な余白である。そして、大きな"生きるエネルギー"を込めることができる場所でもある。
選べても、選べなくても。
すっと背筋を伸ばして、前を見れたらいい。
Sweet+++ tea time
ayako