久々に赤子を育てている。
新生児の育児についていえば、感想は前回と同じで「かわいい」以外にない。しいていえば、寝不足になるのが多少「大変」ともいえるが、それすらもちょうどいいスパイスにすぎない。鰻重における山椒のようなものだ。
では三歳長男はどうかといえば、基本が山椒である。山椒をかき分けてかき分けて、舌をヒーヒーさせながら、時に現れる極上の鰻(=「かわいい」)を堪能する。そんな育児スタイル。めちゃくちゃキュートなのは変わりないが、「大変」の割合がすごい。
たとえば入浴。生まれて間もない次男は、沐浴をする。赤子をお湯に浸し、頭を支えながら洗うやつだ。だいたい午後三時頃、洗面台で行っている。さらりと書いたが、これはもう既に奇跡である。
こちらの都合で時刻を決められるという、大いなる奇跡。授乳直後は避けるなど多少の気遣いこそあれ、時間になったら洗面台に連れて行けばよいのだから。
これが三歳児となると、「そろそろお風呂入ろうか」と声かけしてから余裕で一時間が無為に経過したりする。意志に反して無理やり運べば癇癪が爆発するし、そもそも重い。
この世に生まれ落ちて三年も経過すれば、何をするにも本人の納得が必須なのだ。
あれやこれやとお風呂に入る魅力を説き伏せ、なんとか気持ちを入浴に向けさせたところで、発せられる魔のセリフ「おトイレ行く」。
トイレの照明、補助便座の設置、服の脱ぎ着に手洗いまで、三歳なりの細かいルールがある。流した水はタンクから最後の一滴が落ちるまで見守るスタイル。
ちなみにトイレ内を無事にクリアしても油断できない。手を洗う段になってうっかりこちらが洗面台の照明をつけようものならゲームオーバー。こだわり爆弾に引火する。「おトイレ行く」は地雷の多いイベントなのだ。
眠気や機嫌など、負の要素が重なったところで失敗すれば、大泣きで転がり悲劇まっしぐら。入浴への道はかくも険しい。
そんなわけで三歳児に手を焼きつつ、赤子のお世話にひたすらに癒され、かと思えば三歳児の歌うジングルベルの可愛さに悶絶し、夜は寝ない赤子と船を漕ぎつつという日々を送っている。
最後に、そんな輝かしくも怒涛な一ヶ月を象徴する、「真夜中の水筒大事件」を紹介してこの日記を終わりたい。
夜、どちらかというともう明け方に近い夜、私はリビングのソファーで赤子を抱き、薄暗闇の中で授乳をしていた。
喉がカラカラだった。授乳で水分が奪われるのでやたらと喉が乾くのだ。そのため、ソファー脇には常に水筒を用意していた。だからそれを飲めばいい。しかし私は息を潜め、ひたすら渇きに堪えていた。
なぜそんな無意味な修行を?道場でもないのに?
いや、今ここは道場なのだ。
リビングと隣接する和室で、三歳児が目覚めている気配を感じていた。
長男は、水筒が大好きである。好きというより、妙に執着している。私が水筒の蓋を開けると、その音を聞きつけ即座にやってきては、自分が一口目を飲むのだと大騒ぎする。しかもやたら飲む。何度も飲む。だから女神の眼差しで見守っているわけにはいかず、三十三歳と三歳で本気で水筒の取り合いをすることになる。
(今、水筒の蓋を開けるのはリスクの高い行為だ…)
私の本能が警鐘を鳴らしていた。野性の勘、もとい子育て三年目の勘である。なにかものすごく面倒なことが起きそうな気がしてならない…
薄暗闇の向こう側で、布団と枕の間からじっとこちらを見つめる大きな丸い目を観察していた。
瞼がとじ、寝息が聞こえ始めたらこちらのもの。静寂の中に息を潜め、ただ時が経つのを待っていた。忍耐と辛抱強さ、冷静な判断力、それらが今求められている。天敵から身を守る小動物の気持ちである。
だいぶ時が流れた。暗くてよく見えないが、静寂しかなかった。三歳児の気配は消えている。さすがに眠ったのだろう。いや、念のためあと一分待ってみよう。うん、間違いない。これはもう、水筒にGOサインを出していい。やっと水が飲める…
歴史はいつだって、過ちの繰り返しである。
どんな優秀な為政者の判断であれ、民衆の多数決であれ、人類は常に過ちを冒してきた。いわんやひとりの凡庸な女の直感など、頼りになるであろうか、否である。
全神経を集中させて、指先でそっと、本当にそっと水筒の蓋を開け、一口飲んだ。すると、暗闇の向こう側、隣室の布団と枕の隙間から、幽霊のような声が響いてきたんですね。
「すいとう…」
どんなホラー映画よりも、震えた瞬間である。
そしてまたどんなアクション映画よりも、派手な三歳の癇癪が爆発することとなる、華麗なる午前五時であった。
そうである。と同時に、嵐のなかでも静かに眠り続ける、輝かしくもひっそりとした、次男の新生児日記でもある。
ちなみに二人の関係は、今のところとても良好である。楽しい兄弟ライフを送れますよう…
Sweet+++ tea time
ayako
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