人間は錯覚する生き物だ。
何年も一緒に暮らしていると、あたかも全て分かり合えているかのような感覚に陥る。ふたり並び、同じ花を見れば、同じような気持ちで愛でていると思い込む。
それは平和な勘違いであり、甘やかな錯覚だとも知らずに。
先だって、二歳の息子に、夫がなにやら言葉を教えていた。珍しいことである。
「ヤサイマシマシ、メンカタメ、ニンニクアブラカラメ」
耳を澄ませると、聞こえてきたのは呪文であった。いや、独身の頃の私なら完璧に呪文でしかなかったはずのその言葉の羅列は、悲しいかな、今の私には確実な意味を持って響いてきた。
ラーメン二郎における夫の定番オーダーである。
「ヤサイマシマシ、メンカタメ、ニンニクアブラカラメ」
何も知らない息子は熱心に繰り返している。学校で教わることはない。テストにも出ない。ここ十年使うこともない。だが息子の未来を輝かんばかりのものにする確実な台詞だと、夫は謎の自信を持っている。
マシマシ、肉増し、メガ盛り。こうした言葉の響きに、彼はいちいち心躍らせている。そこには"大きければ大きいほど、多ければ多いほど良い"という価値観がある。
「いつかダチョウの卵を食べてみたいよ…巨大な半熟茹で卵を作って、死ぬほど食べるんだ…」
ゆで卵を食べているとき、夫が決まって語る野望である。
話は突然変わるようであるが、私は花が好きである。写真も好きだ。当然の帰結として、花の写真をやたらと撮りたがる。散歩中にあり得ないほど止まる。夫は呆れる。
とりわけ張り切るのが紫陽花シーズン。綺麗な時期が長いし、あちこちに咲いてるし、バリエーションも多彩ときた。止まらずにいられない。
「さっきも撮ったじゃん、紫陽花」
「そんなに花ばっかり撮っても仕方ないよ」
「もう同じ写真ばっかりだよ」
いちいち水を刺してくる。
彼はわかっていないのだ。紫陽花は土によっても色が変わり(特にアルカリ性の土に咲くピンク色が好き)、種類や形だって無数にある。一つ一つの紫陽花に、それぞれの刹那的ときめきがある。花を愛でること、それは儚さをいとおしむこと。
そんな紫陽花シーズンの散歩が続いたある日、珍しいことに、夫の方から促してきた。
「あそこにも紫陽花咲いてるよ」
「そうだね」
彼もとうとう、季節の花を愛でるようになったのだ…私は感慨深かった。一緒に重ねた年月を想わずにいられない。
だが、やけにしつこかった。
「近づいてきたね」
「うん」
「見えてる?道路沿いのあれだよ」
「うん」
紫陽花の咲く一角を通り過ぎたとき、夫はとうとう声を上げた。
「なんで撮らないの!?あんなに大きいのにッ!」
人間は錯覚する生き物だ。
何年も一緒に暮らしていると、あたかも全て分かり合えているかのような感覚に陥る。ふたり並び、同じ花を見れば、同じような気持ちで愛でていると思い込む。
夫が妙な熱意を持って勧めてきた紫陽花、それは異様に巨大に咲き乱れていた。爆発していた。正直に言おう、好みじゃないのである。
「もっと繊細な感じの、小ぶりなのが好きなの」
「嘘でしょ…あんなに大きいの滅多にないのに…」
信じられない、という顔をしている夫の脳裏には明らかに、豚肉もやしがタワー状に盛られたラーメンが存在していた。ダチョウの巨大卵が浮かんでいた。好きなものなら、大きければ大きいほど、多ければ多いほど良いはずだ。
マシマシ、肉増し、メガ盛り。その価値観を、繊細なる初夏の花にもしっかり適用させている大男。彼と一緒に花を愛でていると思っていた私の勘違いもまた盛大なものであった。
私のカメラロールに同じような紫陽花が大量に並んでいるのと同様、彼のスマホにもまた毎回律儀に撮影した完全に同じようなドカ盛りラーメンが収められている。
そこだけは悲しいほどに共通している。
Sweet+++ tea time
ayako
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