7月25日を「鍋記念日」と定めたい。
この日、私はとうとう運命の鍋に出会い、無事に購入までこぎつけた。長い長い、それこそ何年にも及ぶ鍋探しの旅が幕を閉じたのだ。
正直に言って、これは結婚の報告などよりはるかに貴重で衝撃でめでたいことである。
「いい人」と違って「いい鍋」というのはめったにない。それでいて私の一日のご機嫌を確実に決定付けてくる重要かつ必須のアイテムなのだから。
リビングのソファーでお腹を出して昼寝する男性がどんな風貌でももはや構わないが、キッチンに並ぶ鍋はとびきり愛着のわくチャーミングなものでなくてはならない。
そう、唯一無二の心躍る鍋で、私は嬉々としてボルシチを作りペリメにを茹で、夏のラタトゥイユを仕込み冬のポトフを煮込み、毎日のお味噌汁を用意するのだ…
人は運命の相手に出会ったとき、過去の失恋にすら感謝するだろう。
「あのとき私を振ってくれてありがとう」
2020年6月、理想の鍋をついに探し当てたと歓喜したものの、けっきょく購入できずに終わった。決意を固め期待を膨らませた後の失恋は重い。
あれから一ヶ月半、私は昼夜を問わず「鍋活」に励んでいた。
「もう、この人に決めようかな…」
どこからともなく現れる潮時感が結婚を決めさせるように、この日、私はとある鍋で決着をつけようと思い立った。
暫定第一候補の鍋。コクムスのクリーム色のシンプルな鍋。ここ数ヶ月、憧れの雑貨店のオンラインショップで、定期的にチェックしてきた。
コクムス(KOCKUMS)とは、1983年に創業したスウェーデンの今はなきホーローメーカーである。
花柄もないし取っ手も木製ではないが、ホーロー製のヴィンテージで雰囲気は決して悪くない。素朴なデザインで、以前の持ち主からも大切に使われてきただろう歴史が程よく感じられる。模様がなくて主張しない分、我が家のキッチンに静かに馴染むだろう。
"きっとうまくやっていける気がする"
これは妥協ではない。運命の鍋があるわけではない。出会った鍋を運命にするのだ。見合い相手との結婚に飛び込むがごとき意気込みで、最終確認のためにメジャーを取り出す。サイズは間違いない。今持っている小鍋より一回り大きい。
「もう鍋を決めようと思うよ」
「ほんと」
「白いホーロー鍋で7千円くらいだよ」
「ほんと」
言葉は偉大だ。すべてを受け流している夫相手であっても、口に出すと一気に現実味を帯びてきた。無性にワクワクしてくる。
数ヶ月間ずっと売れ残っていたコクムス。やはりあのクリーム色が私の運命の鍋なのだ。白い両手鍋にたっぷりと作るボルシチ…もう脳内クッキングが始まっていた。
寝かしつけが終わった夜の時間に購入しよう。スッキリした気持ちでスマホを置いた夕刻の私はまだ知らない。
数時間後、突如として現れた「SOLDOUT」の文字に絶叫することになることを。
慢心。それはいつだって、人を躓かせる最大の罠である。
仕事の成功や恋愛だけの話かと思うだろう。だが買い物だって例外ではないのだ。
もう一生いい鍋なんて出会えないかもしれない…
その夜、私は完全に失恋した人のマインドで、茫然自失のままにネットサーフィンをしていた。
暴れる王子を寝かしつけ、狙っていた鍋は売り切れ、それも数ヶ月間ずっと売れ残っていたのに私が買う気になった途端に売り切れ、生気のない顔でソファーに横たわっていた。
インスタグラムでダラダラと他人の料理と皿と調理道具を眺める。これは私にとって特別なことではなく、ほぼ「呼吸」と同義である。だがこの日、奇跡が起きた。
スクロールする指を止め、ハッと息を飲む。
そこにはノスタルジックな花柄の理想的な鍋があった。
思わずソファーから飛び上がる。
スウェーデン在住の方の食卓風景だった。恐ろしく可愛い水色の小鍋がちょくちょく写っている。
いったい何だ…この鍋はどこの鍋なんだ…
こういうとき小心者の私は直接質問をしたりしない。画像を拡大し、タグをくまなく調べ、鍋ストーカーとして全力を尽くす。
どうやらコクムスのヴィンテージ鍋らしい。
なんという落ち度だろう。コクムスの鍋にこんな可愛い花柄があったなんて、今の今まで知らなかった。こうなるともう矢も盾もたまらずインターネットの海で大捜索が始まる。
「コクムス 鍋」「コクムス 花柄」、ヒットするではないか。同じ鍋がどんどん出てくる。だが見事に売り切れている。検索にかかった無数のオンラインショップの商品ページを鼻息荒くタップしては、容赦ない「SOLDOUT」の文字に絶望し、そこに写る、すでに誰かの元へ渡ってしまった可憐な水色の花柄鍋にため息をつく。
絶望する私に、手を差し伸べてくれたあなた。
一度は縁を切ろうとすら思ったあなたが、今回もやはり私を救ってくれたのだ。
数分後、私は感動で震えていた。
【速報】運命の鍋が見つかりました
— ayako | 刺繍して書くひと (@Sweettteatime) 2020年7月25日
無事に購入ボタンを押し、注文完了のメールを確認すると、爆発しそうな思いをこの短いツイートに託した。
メルカリ、あなたはどうしてこうも素晴らしいのですか。
コロナ禍で蚤の市も中止、外国にはもちろん行けない、雑貨屋めぐりもできない子育て中、東京下町の狭いマンションに閉じこもる私にも、可憐なスウェーデンのヴィンテージ鍋が届けられたのだ。それもお手頃価格で。
ああ、こんなにも心躍る鍋があるだろうか。
KOCKUMSの印字がレトロ可愛い。
歴代の持ち主たちも綺麗に使ってくれていた。メルカリで販売してくれた方は飾っていたらしいが、その前の持ち主は料理に使っていたのだろう。しっかりと使用感がありながらも、まだまだこれからという感じ。
ちなみにこちらは一人暮らし時代から8年間使っているAfternoon Teaのホーロー鍋。使用感たっぷり。
カレーも味噌汁もボルシチもジャム作りもすべてこの小さな片手鍋が担ってきたのだから…(もちろんこれからも日々活躍してもらう)
コンロに乗ったそれを眺めては脳内クッキングが始まってしまうような創造性のある鍋。作ったスープを鍋ごと入れた冷蔵庫の、扉を開くたびに幸福で飛び上がりたくなるような生命力のある鍋。
もはや何を言っているのかわからなくなってきたが、とにかく素晴らしい鍋なのだ。
白地ではない、あろうことかパッキリとした水色。取っ手も木ではない。サイズだって当初の目標とは違う。深さだけはあるけれど小さめだ。
だが理想の条件を箇条書きにしたところで、出会ってしまえばそれまでなのだ。
愛着、それがすべてなのだから。
こうして私の鍋活は終わった、と締めくくりたいのだが、世の中には不思議な法則がある。
やっと恋人ができた途端、「あ、この人でもよかったかも…」という人が現れたりするのだ。何年も出会いがなかったのに、なぜ今になって立て続けに。
とある夜のことである。
あらためてその懐の広さにに打ちのめされたメルカリで、私はふいに「北欧 鍋」と検索してみた。安直だが、意外にも試していなかった気がする。
まあこちらもう運命の鍋を手に入れましたんでね。単なるウィンドウショッピングですわ。
軽い気持ちでスクロールしていた指が止まる。
とんでもなく可愛い白のホーロー鍋がある。
それも大好物のボタニカルモチーフ。リンゴの模様が入っている。サイズも理想の大きさ。たっぷりとスープが作れる。そのうえ送料込みの三千円台ときた。ちょうど数時間前に出品されたばかりという、運命的タイミング。
一体どうなっているんだ…
急いでインターネットでの調査活動を開始した。どうやらロッタ・キュールホルンというスウェーデンはストックホルムで活動するグラフィックデザイナーのデザイン。生産はメタラッツ社というセルビアのホーローメーカーである。
少し前までなら楽天やAmazonでも購入できたもので、別にヴィンテージ品ではないが、もう生産は終了しているという。だが問題はブランドとかヴィンテージ云々の問題ではない。
おそろしく可愛いのだ。
私は困惑した。もう鍋は持っている。昔からの愛する小鍋に、新しい水色の花柄鍋。コンロは三つ。フライパンだって置くわけだし、もう必要十分といっていい。
話は突然変わるようであるが、先日夫が二歳児の王子とこんな会話をしていた。
「パパとママ、どっちが好き?」
「コロッケ!」
人はいつから選択肢に縛られるようになったのだろう。いつから瑣末な常識に囚われるようになったのだろう。
パパもママもコロッケも好きだし、鍋は三つあってもいい。
私たちはもっと自由な世界を、いつだって見据えていなければならないのだ。
こうして冒頭の写真に戻ってくるわけである。
我が家の三口コンロは、三つの可憐な鍋をぴったりと収めてくれた(フライパンは冷蔵庫脇に吊るした)
ああ、美しい…
三つ目の鍋として急遽仲間入りした、ロッタ・キュールホルンのりんご柄。白い大きめのホーロー両手鍋、取っ手こそ木製ではないが、これはかなり理想にぴったり。
新品未使用だったので、ピカピカすぎて心もとない。がんがん使って、いい感じの風合いを出してもらわなければ…(私は家も雑貨も古いものが好きである)
24歳で最初の小鍋に出会ってから8年目にして、とうとう二つ目、いや三つ目の鍋にまで出会ってしまった。感慨深い。
これでもう、ジャムもボルシチも味噌汁もおでんも肉じゃがも、すべてが自由自在に作れる最高のキッチンが完成した。
初めての調理は、ポトフ(的なスープ)。
いつも溢れるからヒヤヒヤしながら作っていたが、深いのでキャベツもたっぷり入れられる…感動…
意味もなく食卓に鍋を出してしまうし、もちろん最高に美味しかった…
りんご柄の鍋は、お味噌汁でデビュー。
なんかもう、感極まって、とんでもなく幸せな料理時間だった。ああ、やっと出会えたんだね…
中に入ってるのは、全力でいつもの具だくさん味噌汁なのであるが。
何かを選び、購入すること。そこにはいつだってドラマがある。
ヴィンテージアンティークならなおさらだ。何十年も、ときに何百年も前の作り手がいて、歴代の持ち主たちがいて、見つけ出し並べてくれるお店のひとの努力と審美眼がある。
買い物、それはすなわち出会いへの感謝なのだ。
もちろん終了である。
まあ、強いて言えばミルクパンとか、ごく小さめサイズがもう一つあったらいいだろうけれどね…(ドキドキ…)
▽鍋活奮闘記、まさかの第三話へ続く▽
Sweet+++ tea time
ayako
こちらもどうぞ
▽私の鍋探し奮闘記の前編▽
▽メルカリの話その1▽
▽メルカリの話その2▽