世の中の数ある法則の一つに「待ち時間が長いほど、期待が高まる」というものがある。
たとえばマンガである。大人になると文字通り「大人買い」したり漫画喫茶で全巻一気に読むなどという贅沢が可能になる。だが、子どもの頃、たった30ページの一話を読むために、一ヶ月後のりぼんの発売日を待って待って待ち焦がれていたあの頃の期待と喜びと満足度には、遠く及ばなかったりする。
ドラマも一週間という間隔が実にちょうど良い。ああ、次回が気になるッ!という状態のままじれったく一週間を過ごし、オンデマンドの再放送や予告編で嫌というほど期待を高めながら、ご褒美として迎える放送日の喜びといったらもう。
食べ物だって同じである。お腹が空いて、空いて空いて、あと6組、あと5組と数えながら待ち続けたラーメンの美味しさというのはなるほど格別である。待った時間の分だけ上乗せされた味であろう。名店が行列を作るのか、行列が名店を作るのか。そんな気すらしてくるものだ。
だが私は、この法則がマイナスに働くことがあるのを、すっかり忘れていたのである。
話は変わるが、夫は「もしもトーク」が好きである。
「もしも宝くじが当たったら…」「もしも会社を辞めたら…」「もしも猫を飼うとしたら…」このへんの「もしも」は語り合うのも楽しいものだし、誰しも似たような会話をした覚えがあるであろう。
しかし夫の「もしも」は非常にレベルが低い。低いというか、恐ろしいほどに意味がない。
「ねえねえayakoさん…」とかなり真剣な顔をして話しかけてきたときである。
「もしも隣に唐揚げの匂いがする人がいたら、どうする!?」
どうもしないから。
この「もしも」を考える意味と時間を問いたいものである。私がめんどくさ…と思っでぼうっとしてると、
「なんで答えてくれないんだよッ!僕はayakoさんの意味不明な夢の話とかちゃんと聞いてるのにッ!」
そのとおりである。
言い分はわかるのだが、それにしろ会話の膨らみ度が0である。
「揚げたての唐揚げを買った人なんじゃないの?」
と仕方なく答えると、
「もし唐揚げを持ってないのに唐揚げの匂いがしてたらどうする!?」
さらにどうでもいい方向に「もしも」設定が絞り込まれるという恐怖である。
「そんなの気持ち悪いでしょ。ふつうにいやだよ」
「でもさあ、唐揚げの匂いだよ!?」
「・・・・・」
そんな夫と、今日は大江戸線に乗っていた。いつもどおり二人並んで座り、くだらないおしゃべりをしていた。ありふれた愛おしい日常である。夫は言った。
「今朝、キッチンの近くで小さな蜘蛛を見たんだよ。薄くて小さいやつ」
「へえ〜。朝蜘蛛って縁起がいいっていうよねぇ。よかったねぇ」
「小さいからそのままにしておいたよ」
「まあ時々いるもんねぇ」
すると夫が何か言った。
だが大江戸線はある一定の区間でものすごい轟音をあげて走る地下鉄である。例の轟音区間が始まったようで、夫が耳元で言った言葉もまったく聞こえなかった。見ると周りの人たちも会話を諦め、音が終わるのをじっと待っている。
地下鉄の密閉空間で、すべてを掻き消す轟音に包まれ、みんながしんとして時が過ぎるのを待っているというのは、妙に可笑しくて愛すべき光景だなぁと思う。私はどこか客観的な気持ちで車内の様子を見つつ、夫の言葉を待っていた。たかが数秒のことなのに、会話を止められている時間というのは妙に長く感じるのだから不思議なものである。
轟音区間があけた。乗客の皆に表情が戻る。
夫も嬉しそうに耳元で言った。
「もしも犬みたいな大きさの蜘蛛がいたら、どうする!?」
期 待 し て 損 し た
私が座席から崩れ落ちそうになったことは言うまでもない。
なぜあの奇妙に長い数秒間、夫の言葉を一心に待っていたのだろう。あんなにワクワクしてたんだろう。待っている間に、ものすごい貴重な言葉がもらえる気すらしていた。
「待ち時間が長いほど、期待が高まる」
それはときに恐怖の法則なのである。
今日はブログの更新をお休みしようと思ってたんですが、こうして書いているのも、まさにこの法則を思い出してしまったからである。次の更新まで時間が開けば開くほど、読者の皆さんの期待も高まるかもしれない。
「何日も待ったのにこんなくだらない話をされたッ!」などと思われぬよう、いそいそとPCのキーボードを叩く小心者の私であった。
まあ、夫のような大胆な心で、話したいことを話せるようになったら勝ち組だよね。(違う)
Sweet+++ tea time
ayako
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