初めての感動は大きい。
初めて自転車に乗れたとか、逆上がり出来たとか、100点が取れたとか。初めてのデートとか、初めて食べたつけ麺とか、初めてのディズニーランドとか。
私たちは無数の「初めて」を重ねて歳をとり、だんだんと世界に慣れ親しんだものを増やしていく。
21歳の頃、スペインやポルトガルに行った。初めてのヨーロッパだった。
見たことのない荘厳な大聖堂や教会に、感動した。畏怖の念すら感じた。
でも旅が続き、そんな大聖堂や教会が街中に、それこそコンビニの如く現れるので慣れてしまった。慣れてしまったことにびっくりした。
いちいち畏怖していてはトイレも行けないしご飯も食べれない。旅の途中にも日常はしのびよる。
私たちは新しさを減らしながら生活に順応していく生き物なのだと思った。
祖父母を見ていても、慣れ親しんだ街で、慣れ親しんだ古い家で、いつもと同じ日常を繰り返すことを一番大事にしている感じがする。
好奇心旺盛だった祖父も、歳をとるにつれ、新しい店に行ったり新しい機械を触ったりするのはどんどん億劫になるようである。
足跡をつけて、見知ったものを増やし、安心を手にいれる。近所の地図を作るように、こつこつと自分のまわりの「初めて」を消化して行く。それが生きること、歳をとるということなのだ。
私もこれからどんどん「初めて」が減っていくんだろうなぁとなんとなく思っていた。
さて、話は突然変わるようであるが、先日はバレンタインデイであった。
大分は別府に住む祖父にチョコレートを送った。近所の洋菓子店でトリュフを買い、手紙を添えてレターパックをポストに投函する。
翌日、電話がかかってきた。祖父である。
「昨日は、チョコをありがとう。いや〜、バレンタインデーなんて、すっかり忘れてたよ」
すでに声が興奮している。
「まぁ、おばあちゃんからもらうってこともないだろうしねぇ」と相槌を打つと、
「ないない。そんあことありゃあせん、だいたい生まれてこのかた、バレンタインデーにチョコなんて一度ももらったことないよ。まさか死ぬ前にもらえるなんて…ワハハハハ!」
携帯越しに、超ご機嫌で笑っている祖父の声が響いていた。
ちなみに、チョコは昨年も送っている。
昨年だけではない。なんなら一昨年も送っている。
そして昨年も一昨年も、祖父は「バレンタインチョコなんて初めて」と感激していたし、「死ぬ前にもらえるとは思わなかった…!」という命の終わりに瀕した病人のようなセリフを、生命力たっぷりに発していた。
歳をとっても、「生まれて初めて」はなくならないらしい。
むしろ下手に何年も前のことを覚えている今より、大きな感動が味わえるのかもしれない。
上手にものを忘れるのも、神様の粋な計らいなんだと思っている。
祖父よ、来年も、初めての気持ちで喜んでね。
Sweet+++ tea time
ayako